ミラーレス一眼は写真を変えるのか

 昨日、キャノンのミラーレス一眼の画像が流出した。最近の宣伝手法は、画像流出だとか、試作機の紛失(i-phon4s)によるニュースなど、どうもネットでの話題作りから初めて、市場の反応を高めてから販売するケースが多いので、いかにもという感があり、少々食傷気味であるが…

 確実にカメラは、ミラーレス一眼に代表されるように小型軽量化へ向け商品開発している向きはある。現在、ミラーレス一眼の売れ筋は、ニコン・オリンパス・ペンタックスの順位ということだが、少し意外なのは、オリンパス(OM-D)は他の2社に対し、レンズ付きの実売価格が13万円弱と、結構高めなのに売れていることだ。これは、他のメーカーのコンパクトカメラのアップグレード版という印象のカメラに比べて、本格的な一眼レフというイメージのせいかもしれない。

 例えば、ホワイトバランス(WB)を変えるとファインダー(背面のモニターではない)の画像が、WBに合わせた画像で見える。シャドーやハイライトの調整もファインダー上で操作でき、アスペクト比も何種類か用意されている。その中には、ハッセルやローライのような正方形のサイズもある。連写性能・手ブレ軽減性能にも優れているので、小型軽量のカメラとは思えないほど、性能が充実している。このような傾向からして、カメラは、小型軽量化・自動化に向け商品開発されることは間違いは無さそうだ。

 更に、画像処理ソフトの性能向上とバリエーションの豊富さも飛躍的に向上している。Raw現像ソフトの代表格のLightroom4などは、今までのレタッチの常識を一変させたといってもいい。上級者でなければ実現し得なかった高度な画像処理技術も、Lightroom4ならば、一瞬で可能になる。ちょうど、ホームページ制作がプロでなければ出来ない時代から、ほとんどパソコンの知識がなくともできてしまうJimdo(当サイトもjimdoで制作)のようだ。(どんな便利なソフトでも慣れるまでは結構大変だが…)

 同時に、このような傾向に異を唱える写真家も多い。彼らからすれば、写真の技術や知識はブラックボックスにしまっておきたい。よくある事実として、撮影地を教えない、撮影技術を教えない、簡単に処理できるソフトの情報を公開しない。まるで、パテントであるかのように後生大事に秘密にする。確かに先駆者は、試行錯誤を繰り返した上で、その地位を確立したのだから、大切にしたい気持ちは分かる。しかし、それでは進歩向上がない。苦労して得た知識や技術は公開してこそ、さらなる飛躍への原動力になる。

 一昔前までは、「いいピントですねぇ」が褒め言葉であったが、今のカメラはカメラが自動にあわせてしまう。露出においても、デジカメならヒストグラムや画像を確認するだけで分かる。高度な多重露光であっても、ソフトで簡単に処理できる。先にあげたオリンパスのミラーレス一眼(OM-D)は、ホワイトバランスやトーンディティールまでカメラで操作できるし、スナップでもファインダーを覗かずにモニターの角度を変更して、被写体に狙っていることをわからないようにして撮影することも可能なカメラまである。

 カメラは常に進化してきた。それは、この世に写真が誕生した瞬間から、続いている。同時に、進化や技術革新は、先駆者たちの誹謗中傷の対象にもなってきた。

 しかしながら、写真とはカメラ(最近ではソフト)を含めて進化する芸術といっていい。進化は多くの人々へ門戸を開くが、同時にありきたりの表現や技術では、インパクトを与える作品が出来ないということにも通じる。

 すなわち、技術や機能を使って表現しても、作者の意図が伝わらない作品であればナンセンスということになる。

 今までは、見た目の奇抜さや、技術で評価されてきた作品は、誰でも可能な表現ということになる。

 よって、今まで以上に写真に求められる要素は、作者の作品に対する思いや主題が、明確に表現されていることが重要で、見せかけだけの表現は通用しないということになる。

 門戸を広げ、多くの表現が可能になった今、作者の写真を通して伝えたいメッセージが、作品の価値を決める要素となる。

 結論をいえば、写真表現の内容によって、カメラの選択(デジカメ・フィルム)やフォーマットサイズ(35mm/中判/大型)、カラーかモノクロ及び現像処理方法等々、研究・実践の繰り返しの中から、自己表現を実現するための方法を導き出す必要がある。

 最後に、本稿の締めくくりとして含蓄のあるアンセル・アダムスの言葉をひとつ、

自動カメラは、いかに洗練され正確であっても、写真における創造的な感受性や理解力に取ってかわることはできない。(アンセル・アダムスの写真術The CAMERA /p.30)

※カメラの選択基準についての記事は、5月8日のブログを参照してください。